すなば珈琲 

 唯一スタバがない県として名を馳せたのが鳥取県。スタバはなくても「すなば珈琲」て、ニュースで聞いて、なんとなく耳に残っていたけど、いやぁ、本当に「すなば珈琲」ありました。(^^)

 6年ぶり。友人のまさよさんとの再開。

マスコミ市民 小説『ハヨンガ』

小説『ハヨンガ』

 女の私が見ている世界と、「男」が見ている世界は、果たして同じなのだろうか。
 1980年頃、私は広告代理店の特別宣伝班として日本各地を巡っていた。泊まるのは安い
ビジネスホテルだ。
 部屋のテレビには必ずと言っていいほどポルノチャンネルがついていた。そこに流れる
ビデオの多くは複数人で女性を凌辱し、男たちの笑い声が聞こえるものだった。
 1995年頃、パソコンを使い始めてみると、送られてくる宣伝メールの内容はエログロば
かりだった。ネットの世界では男のための性広告がこんなにも大量に送られているのかと
辟易した。
 インターネットが簡便に使えるようになると、犯罪的なポルノ産業は飛躍的に市場を伸
ばしていった。児童ポルノに関しては、日本は絶えずその最大の産出国として名前が挙げ
られる。女性の社会進出が進み、セクハラは犯罪だという認識が社会的に定着してきた今
でも、女性を性的商品として消費する仕組みは、手を変え品を変えて男の元に届けられて
いると言っていいだろう。
 私自身、仕事の中でのセクハラ被害は日常的にあった。それだけに、この手の性被害記
事や小説を読むのはしんどくて、必要最小限のものだけにしていた。
 しかし、㈲アジュマ出版から6月16日に発売された『ハヨンガ』は違った。読み終えた
ときには、身体の中から血が沸き立つような思いだった。
 「ハヨンガ」とは、韓国語の隠語で、男が女を買うときにかける言葉だ。『ハヨンガ』
は事実をベースにしたドキュメンタリー小説である。
 2015年、韓国最大のアダルトサイト「ソラネット」は、素人ポルノ動画の共有サイトだ
った。
 「招待客募集」というタイトルの動画では、何らかの方法で意識を失わされた女性が凌辱
されていた。「招待」された客は、指定されたホテルの一室でその犯罪行為に加わるのだ。
そんな動画が、見て喜ぶ男たちの世界で拡散されていった。
 サイトの中は女性嫌悪に満ち溢れ、餌食にされた女性は「雑巾女」(男によって性的に
使い古された女の意)などと呼ばれていた。
そして、行為後の写真や動画もまた「記念写真」としてネットに上げられた。
 明らかな犯罪行為が行われているのに、当初、警察が積極的に動くことはなかった。
 被害女性の方が社会的に抹殺されてしまうのは日本も韓国も同じだった。しかし、韓国
の女たちは、自警団を作ってこのサイトに殴り込みをかけたのだ。
 自らを守る女たちの秘密グループ「メデューサ自警団」。専門知識もなければ組織ら
しい組織もない。あるのは怒りだけ。男の横暴を許せないと思った女性たちが、とにかく
行動しなければという熱い思いを持って集まったのだ。
 活動は隠しカメラ販売禁止法制定のキャンペーンから始まり、公衆トイレに盗撮禁止の
貼り紙を貼ったり、国際請願サイトにソラネット閉鎖の要望を出したり、メディアに関心
を持ってくれるよう働きかけたりもした。
 そして、自然に多様なプロジェクトチームができていき、ネットの監視、通報、各種コ
ミュニティへの告発など、誰かが命令しているわけではないのにみんなが一糸乱れぬ動き
をし、どんどん闘い方が進化していった。
 ソラネットに対しては、サイトの中で、激しい罵詈雑言を駆使して男たちを罵倒した。
「雑巾女」並の下劣な言葉を使い、相手の差別を鏡に映すような形で攻撃したのだ。そし
て、サイトを男への侮蔑でいっぱいにして、見ることができないようにして奪い取った。
 女たちは見事に犯罪サイトを閉鎖させた。
 さらに、被害者に同情的ではあっても何もしない男は加害者と同じで女が付き合うに足
る男ではないとして三行半を突きつけるその姿に、思わず拍手してしまった。
 この小説の中に登場する被害女性は、弱くみじめな存在ではなく、強く気高く美しくて、
圧倒されてしまうほどだった。こんなドキュメンタリー小説を読んだのは初めてだ。
 彼女たちの行動が、その後の「N番部屋」性暴力事件の解決にもつながった。
 女が見ることのできなかった男社会の恥部を知った女たちは、もう黙ってはいないと、
男の望む女像などさっさと脱ぎ捨てていく。
 そこから初めて自己奪還が始まるのだと、この小説は教えてくれている。■

韓流エンタメでカンパ〜イ Kpop 「ジョンヒョン 一日の終りに」

ジョンヒョン「一日の終わりに」

 2017年12月18日、一人のK-Popスターが自ら命を絶った。シャイニー(SHINee)メン
バーのジョンヒョン(享年27歳)だ。
 ジョンヒョンは2008年にシャイニーのメインボーカルとしてデビューした。ダンスもフ
ァッションも時代の最先端を行くグループで、デビュー当時から賞を総なめし、東京ドーム
も満席にするほどだった。その人気は今も続いている。
 ジョンヒョンの歌声は繊細で、いまも多くの人の心を魅了する。しかし、感受性の鋭さ
が、そのまま社会の生きづらさを反映してしまったのだろう。
 遺体を発見したのはジョンヒョンの姉で、彼はそれまでにもいくつかのサインを出して
いた。以前、ジョンヒョンは酔って家に帰り、母と姉に「幸せか?」と問いかけたことがあ
る。二人が幸せだと答えると、自分も幸せになりたいと泣いたという。
 当時はシャイニーとしても絶好調の時期だったために、彼の心の闇は見過ごされてしま
った。
 韓国の芸能界では、確かに自殺記事がよく出る。
 日本も自殺率の高い国だが、日本社会における在日の自殺率は日本人の2倍である。要
は、抑圧の重さと深さに、自殺率は比例しているのだろう。死ぬほうが生きるより楽とい
う社会を、私たちは自分をだましながら生きているのかもしれない。
 ジョンヒョンの死は、たとえ勝ち組になろうと、世界中にファンがいようと、苦しみ・
孤独からは解放されないことを語っている。

 彼のソロ曲に「一日の終わりに」がある。
(全訳はメーリングリストで見てください)

『♪手をこちらに 僕の首を包み込んでよ 疲れて果てた今日の終わり、一日中別世界に
いた二人・・・・おつかれさま ごくろうさま 心から泣くことも 心から笑うこともなく 
疲れてしまった一日の終わり・・・・おつかれさ ま 本当に大変だったね・・・・』

 スゴヘッソヨ(大変だったね)、コセンヘッソヨ(苦労したね)と何度も繰り返される
と、本当に自分が疲れているんだなぁと思い知らされる。この歌がいまも多くの人を魅了
するのは、互いにいたわりあう優しい関係性を歌っているからだ。


 日本経済は底をついたのではなく、底が抜けた。これからは、貧困がすぐ隣りにある生
活を多くの人が強いられる。そんな中、定年後、家庭に居場所がない男性が少なくない。
 先日熟年離婚を強いられた友人は、妻に十年近くも口をきいてもらえなかったという。
離婚の理由は子育てを手伝わなかったからと言われて、彼は「そんなことで」とため息を
ついていたが、もうそこでアウトだ。
 育児の過酷さや孤独をまったく理解していない。尊敬に値しない男でも金を持ってくる
から頭を下げていたという現実への認識もない。そのうえ昭和頭で退職後も家で部課長づ
らする男なんかと一緒に暮らせるはずがない。
 声をあげられなかった人々の多くは、国や政治にも、パートナーにも、ジョンヒョンの
ような繊細で優しい感性を求めているのだと思う。■

シャイニーのジョンヒョンのソロ曲「一日の終わりに」
https://www.youtube.com/watch?v=2CeN5YeXThc
 以下辛淑玉意訳

 手をこちらに 僕の首を包み込んでよ
 もっと肩の方まで包み込んで
 疲れて果てた今日の終わり
 もう陽が昇っていても
 やっと目を閉じれるよ
 誰よりも遅くに扉を閉じる
 僕の一日に
 いたずらに耳たぶをくすぐって
 一日中別世界にいた二人
 いつも一日の終わりは一緒にいて
 君のその小さな肩が
 君のその小さな二つの手が
 疲れてしまった僕の一日の終わりに
 真綿のようにつつんでくれて
 おつかれさま 本当に大変だったね
 君にも僕の肩が 武骨な手が
 疲れてしまった君の一日の終わりに
 暖かい慰めとなることを
 自然な息遣いで君と呼吸を合わせ
 隙間なく君を包み込む中は
 浴槽の中の水のように
 一瞬の隙間もなく包み込む
 不器用で間違いだらけの
 恥ずかしい僕の一日の終わりには
 君という誇り高い存在が
 僕を待っていてくれる
 君のその小さな肩が
 君のその小さな二つの手が
 疲れてしまった僕の一日の終わりに
 真綿のように
 おつかれさま ごくろうさま
 心から泣くことも 心から笑うこともなく
 疲れてしまった一日の終わり
 それでもあなたの傍らで
 子どもみたいにぐずって
 息が切れるほど笑って
 僕も恥ずかしい自分と向き合ってみる
 おつかれさま 本当に大変だったね
 あなたは僕の輝きです

マスコミ市民 映画『グッド・ライ』2014 米国


 -再生の物語として-

 フィリップ・ファラルドー監督の『グッド・ライ いちばん優しい嘘』を見た。
 スーダン内戦(1983)で故郷を追われ、両親と死別したり一家離散した10万人以上の子
どもたちが、その10年後、アメリカとスーダンが協力した計画により、全米各地に移住し
た。この映画は、「ロストボーイ」と呼ばれた彼らの物語だ。
 映画評では、ヒューマンストーリーだとか、アメリカの偽善であるとか、その見方は様々
だった。しかし、共通して指摘されているのは、難民の目線で見たときの、いわゆる先進
国といわれる国々の矛盾である。
 しかし、この映画は、そんな定番のメッセージを送るために作られたのだろうか。少
なくとも私の目には、これは「再生の物語」だと映った。

 主な登場人物は、難民一家の
  ・テオ(兄)
  ・アビタル(妹)
  ・マメール(弟) 
 別の難民一家の
  ・ジェレマイア(兄)
  ・ポール(弟)
 の兄弟姉妹たち。

 この物語では、スーダンのある村で暮らす家族が襲撃を受けて、両親は殺され、残され
た子どもたちも避難する中で一人ひとり事切れていく。長男テオは、弟妹を連れて安全だ
と言われていたエチオピアにたどり着こうとするが、そのエチオピアから戻ってきた難民
たちからエチオピアも安全ではないことを知り、その中にいた兄弟(ジェレマイアとポー
ル)と一緒に、行き先を変えてケニアへと向かう。
 しかし、その道程でテオも捕らえられてしまい、残された妹のアビタルと弟のマメール
が、ジェレマイアとポールとともに、命からがらケニアの難民キャンプにたどり着く。12
56キロの道のりだった。
 このとき、過酷な経験を共にしてきた彼らは、すでに強いつながりを持つ「家族」とな
っていた。
 その後、彼らはキャンプの中から選抜されてアメリカ移住のキップを手にするが、アビ
タルだけは異なる地域に引き取られることになり、彼らはまた離散する。
 たどり着いた米国での生活は、生まれて初めて見るものばかりで、電話やベッドの使い
方もわからず、彼らは周囲を苛つかせながらなんとか異文化を身に着けていく。

 出演していたのは難民当事者であり、だから彼らの演技には、まさに当事者ならではの
戸惑いが映し出されていた。
 例えば、スーパーに職を得たジェレマイアは、まだ十分食べられるものを廃棄するルー
ルに戸惑い、同時に、ゴミ箱(廃棄BOX)をあさるホームレスの姿を目の当たりにする。
そして、「与えないのは罪です」と、店の責任者に逆らって廃棄食材を野宿者の女性に与
える。
 アメリカ社会(商業主義)のひずみを映し出していると評されるシーンだが、私はそこ
にスーダンの人々の精神世界を見た。
 ジェレマイアを演じたゲール・ドゥエイニーは、世界的なトップモデルでもある。19
78年、スーダン南部(現在の南スーダン)で生まれ、内戦で一家離散し、強制的に少年兵
として徴兵された経験を持つ。14歳でエチオピアの難民キャンプへと逃れ、その後、第三
国定住政策で米国に移住。2010年、祖国南スーダンに戻り、ようやく母親や兄弟と再会
を果たした。
 米国に着いた途端離れ離れになったアビタルとの再会がかなったときのジェレマイアた
ちの喜びようの裏に、スーダン内戦によって過酷な時間を共に過ごしてきた彼らの姿が垣
間見える。
 その後、物語では、ケニアの難民キャンプでマメールやアビタルを探している男がいる
という知らせを聞いて、兄のテオではないかと思い、代表してマメールがケニアに向かう。
 兄との再会は喜びだったが、結局兄に出国許可は下りなかった。そこでパスポートの偽
装をし、自身のパスポートを兄のものとして兄テオを米国に向けて出国させ、マメールは
難民キャンプに残って医療活動を続けるというところで終わる。
 タイトルはまさに、「嘘」は誰のためにつくのかという問いを私たちに投げかけるのだ
が、一方で、難民キャンプに残ったマメールの姿は、スーダン再生の最初の一歩のようだ
った。
 離散した家族が、新しい家族を得、離合集散を繰り返しながら、難民キャンプに戻る。
マメールはここで新しい家族・地域を作るのだろう。それこそが南スーダンの文化だから
だ。家族や地域のために生きる文化。
 映し出される子どもたちには生きる力が、ある。南スーダンの人々の、逆境に向き合う
んだという、人間としての強さがみなぎっている。

 2011年に南スーダンが建国されたが、今も課題が残っている。アフリカの傷は深い。
 帝国による植民地化と殺戮の歴史は、今でもアルコール依存症、レイプ、難民施設での
自殺者の増加など、様々な困難をこの地域に残している。スーダンからの難民・避難民は
2019年時点で7千万人を超えている。第三国が受け入れた再定住者は7%にも満たない。
その歴史を踏まえてこの映画見ると、単なるヒューマンストーリーではない何かを私たち
に気づかせてくれる。

追記:ユニセフのインタビューでの、ゲール・ドゥエイニーのコメント。

――はじめてアメリカに着いたとき、あなたはどう感じましたか?

「今までの自分の暮らし方や文化を失ってしまうのではないか、と心配になった。確かに
アメリカに行ったら、まず始めにアメリカでのやり方を身に着ける必要がある。だけどア
メリカに行ってから、母国の文化はより大切なものになったんだ。僕はそれを大事にしよ
うと思った。だから南スーダンに戻った時、僕が持っている母国の文化に照らし合わせな
がら新しい事を身につけようと思ったんだ。それは僕にとってとても興味深く大切なこと
なんだ。それによって僕は僕のままでいられるからね。」

――あなたにとって母国の文化の重要性はアメリカに行ってから大きくなっていったので
すね。

「ああ。僕はそれを失いたくなかった。と同時にアメリカで経験することを怠りたくもな
かった。両方を僕の中でひとつにしたかったんだ。」

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